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僕がアメリカに留学できた理由

自分が研究者に向いていたのかどうか、実は今でもよくわかりません。

小学生のころから、手先が器用なことは先生や周囲の大人たちに認められていました。絵を描くのも好きで、美術の時間は得意分野でした。でも、それで芸術家として成功するかどうかは、誰にもわからない。同じように、科学者としての適性も、器用さだけでは測れないのだと、今なら思います。

たしかに、生物学の世界では、実験の精密さや手先のスキルは重要です(いや、今となっては「重要だった」と言うべきかもしれません)。でも本当に必要なのは、もっと別の力――想像力だったり、しぶとさだったり、誰にも見えないものを信じ続ける力だったり。そういうものだったのかもしれません。

僕にそれが備わっていたのかは、今も自信がない。なぜなら、僕は結局、自分の中で「何かを成し遂げた」と胸を張って言えるものを残せなかったからです。

……とはいえ、一応は研究の現場に身を置いていた時期があります。だからこそ、少しだけ、自分がどんなふうにその世界にいたのかを、知りたいと思ってくれる人に向けて、少しヒントのような話をしてみようと思います。

すこし遠回りで、変な言い方になってしまったかもしれません。でも、僕が人とは違う生き方をしていて、それに戸惑う人が多いのです。それで少し私を理解するヒントになればと思って、自分語りをしようと思います。

しかし、上から目線に聞こえたら申し訳ない。もし読んでいて不快に感じたなら、ここで読むのをやめて、どうか自分の心を大事にしてください。

さて、僕の研究人生の“第2ステージ”は、大阪大学医学部の分子遺伝学教室から始まりました。…と言っても、すべてが順調だったわけではありません。

実は、その研究室の教授が、あとになってわかったことですが、かなり人間的に難のある方でして…僕が入学する前から、ちょっとした“地雷”を置いてくれていました。

「今度、東大からとびきり優秀な学生が入ってくる。君たちとは違う、きっと研究室に大きな成果をもたらしてくれるはずだ。」

そんなことを、教室の研究員たちに吹聴していたのです。

もちろん、期待してもらえるのはありがたいこと。でもそのおかげで、入る前から周囲の反感を買ってしまっていたのです。

もし僕が、入ってすぐに潰されてしまっていたら……たぶん「向いてなかった」と言い訳して、別の人生を歩んでいたかもしれません。でも、そうはなりませんでした。

なんと、入って1ヶ月で、誰もが無理だと思っていた成果を出してしまったんです。

その研究室には、長年解決できずにいた「タンパク質の精製」のテーマがありました。2年近く取り組んできた先輩研究員も諦めかけていて、研究室全体の空気としては、「あの新人にやらせてみよう、少し痛い目見ればいい」という雰囲気だったと思います。

でも、僕にはある程度の察しがありました。このタンパク質、なぜかうまく精製できない。おそらく、それ自体が勝手に分解してしまうからです。

「だったら、分子生物学的手法で大量生産させて、短時間で一気に精製すればいい。」

そう判断して、僕は3日間、ほぼ寝ずにアホみたいに働きました。たった一度の人生で、唯一「完全燃焼」した3日間。結果、精製に成功してしまったのです。一度タンパク質の精製ができてしまうと研究は一気に進みます

その成果は一気に広まり、教授が国際学会で発表しました。そこにいた海外の研究者たちは私の研究を高く評価してくださいました。

「NIH(アメリカ国立衛生研究所)に来ないか?」

……こうして僕は、アメリカに留学することになったのです。

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